■ 堀江敏幸 / バン・マリーへの手紙

岩波の「図書」の連載をまとめた書物。2007年5月の発売。
各々10ページほどの「随筆」が25編ほど。タイトルに使われている「パン・マリー」は、冒頭に置かれた「牛乳は嚙んで飲むものである」の中に出てくる「湯煎」を意味するフランス語である。
著者が幼稚園に通っていたときの先生が、冬場に牛乳を子供たちに飲ませるときに、石油ストーブに乗せた「たらいの中にもうひとつ水をはった鍋を入れて二重底にし、そこに通常の半分のサイズのちびっこい牛乳瓶を、口のところについている青や紫のビニールだけとってずらりならべる」ことによって、牛乳を熱すぎもせず冷たすぎもしない、自然なあたたかさにし、そうすることによって独特の「あまみ」が出ると言っていたことから、それが正確には「湯煎」というより一種の「お燗」というべきものであったということを踏まえたうえで、仏文学者である著者の専門領域である「フランス語」に話題が移っていく中で言及されたのが、この「バン・マリー」(bain-marie)なる言葉である。
ちなみに、「バン」は、お風呂・浴槽を意味するが、「マリー」の由来には諸説あるとし、どうやら何らかの意味で、この技術が考案された14世紀ごろの「マリア信仰」と関係があるらしいとも触れられている。直接ではなく間接的にあたためる「やさしさ」「やわらかさ」が聖母マリアのイメージに重ねられたということらしい。
と前置きが長くなったが、この間接的、あるいは中間的、言い換えれば、どっちつかず、中途半端というのが、著者があえて選んだ「立ち位置」である。著者は言う。「手に入れた材料を、言葉を、体験を、レンジフードの換気を最大にしてがんがん火であぶり、炒めるような真似だけはしないで、火加減に気を配りながら湯煎にかけること」。
この散文集のこの冒頭の一編意外でも、この「湯煎」という言葉が何度か繰り返されていたはずだが、つまり、あえて言うなら、本書にどの一編でも、そういう立ち位置を維持することの意味をさりげなく訴えているということになる。と、肩肘張った言い方こそ似合わないのだが。
個人的には、私がかつて1年間だけ通った大学のゼミでレポートを書いた、アメリカの画家ベン・シャーン(ここではリトグラフや挿絵が主に取り上げられる)や以前よく読んでいた幸田文の話題が出てきたのは何だか嬉しかった。話題には、やはり文学や翻訳について多く採られているが、必ずしもそうした分野にこだわることなく、もっと日常的な、さりげない「瑣末な」ことも少なくない。
小説もいいが、こうしたいわゆる随筆、エッセイ的な散文もいい。
文体は、幾度か触れたように、ただただ軽快に流れていくようなタイプのものではなく、もっとごつごつした質感を残したものだが、その原料と加工の仕方までが想像できるような(もちろんできるはずがないが)あり方に素直に好感を抱けるのは、何と言うか、おそらくそれが著者の、思考やその対象への、あるいは文章表現自体に対する真摯さの表れだと思えるからだろう。

