■ 村上春樹 / 東京奇譚集

世の中では「1Q84」を巡って様々な議論が巻き起こっている(?)ようだが、そんな折に前作の短編集(のそれも文庫版)の感想を書くのも何だが、まぁ仕方ない。
ちなみに、この「前作」から途絶えたこの著者の新刊単行本即買い即読みは今回も途絶えたままになりそうである。たぶん文庫になったら読むことになるのかな。
閑話休題。
「東京奇譚集」である。この文庫も、文庫が出て(奥付を見ると「H19.12.1」)おそらくまもなく購入にいたったはずだが、読んだのが先日と、昔に比べれば考えられないほど村上春樹に対する読書熱が盛り上がらない私だが、ま、それは置くとしよう。
そういうスタンスがよかったのかどうか、思っていたよりずっとおもしろく読めた。収められている五つの作品が皆、いくらかの程度の差こそあれ皆、おもしろかった。
そういう意味では、改めて村上春樹を見直したということになるかもしれない。
比較的近年の村上春樹の傾向のひとつであるように思える、謎めいたモティーフを設定し、物語を展開させ、最後に来て、その「謎」を謎のまま放り出すという手法は、ここに収められた短編の中のいくつかにも見られる。
その手法の意味について改めて思ったのは、つまりは現実において「謎」はどこにでもあるという、言ってみればごく当然のことを改めて当然のこととして意識させるということになろうか。偶然の出来事や理由のわからぬ様々な事柄は、単一の理由だけで引き起こされたわけではないからこそ「偶然」になったり「理由」がわからなかったりするわけである。そして概ね現実の「出来事」の多くも、そうして、私たちのあずかり知らぬ網の目の上に浮上してくるということになる。だから、ことさらそれを「謎」とみなすかどうかは「扱い方」の問題にある。考えてみるに、村上春樹はその初期の作品では、それを「謎」とみなすことなく、当たり前のこととして「そういうものだ」と割り切っていたような気がする。それが、おそらくは長編で言うと「ねじまき鳥」あたりから「コミットメント」という言葉で語られる姿勢の変化をきっかけに(かどうかはよくわからないが)、よりシリアスに「謎」を「謎」として見るようになったのではないか。つまり「謎」には、「物語」で語られうるものが含まれている、と。人為的なものにせよ、人知を越えたものにせよ。ほとんど「思いつき」程度に過ぎぬことではあるが、そんなことも考えた次第である。
ともあれ、「東京奇譚集」は悪くなかった。どうしようかな、「1Q84」。

