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豆腐に柳

 音楽、書物、映画、美術展等の感想、その他日々のあれこれ

2019.01.05[土] Movix橋本 映画「旅するダンボール」

12/16、Movix橋本で映画「旅するダンボール」を見る。
ダンボール・アーティスト島津冬樹の活動を追ったドキュメンタリー映画。監督は岡島龍介。

たまたま目にしたトレイラーが気になって調べたら割に近くに上映館があり、見に行く。

島津は、デザインが気に入った使用済みのダンボールをもらってきては、それを材料に財布やカードケースをつくる。活動は海外にまで及ぶ。
ダンボールから財布やカードケースを制作するワークショップみたいなシーンでは、参加者、子どもも大人もみな楽しそうな表情が目についた。
ふだん打ち捨てられてしまうものが再生されるのは、多くの人々にとって心地良いことなのだと改めて思う。

映画はそうした島津の活動とともに、もうひとつ、島津がたまたまデザインが気に入って見つけた徳之島産のじゃがいもの入っていたダンボールの「ルーツ」を探す旅程をも追う。
後者では、まずそのダンボールのじゃがいもを「制作」した会社を訪ね、そのデザイナーの行方を追い、ついにデザイナーに会う。
そして既にリタイアしていた彼にダンボールから作った財布を手渡す。その側でデザイナーの奥さんがその財布を手に涙を流す。ここにはおそらくいくつかの「物語」がある。

最初は、ダンボール・アーティストとしての彼の活動の焦点にした、ある意味で、決して悪い意味ではないが「軽い」作品だと思って見ていたが、彼の活動は自然に、現代社会の最大の特質の一つである「消費」を問い直す視線を持つことになる。先の「物語」もそうだが、時代に見合った「重い」テーマが表れ出ていることに気づく。

しかしそれはそれとして、島津の表情も活動は、対照的に実に軽やかだ。
重い時代だからこその軽やかさに見える。

まったくもって、悪くない。

http://carton-movie.com/

2019.01.01[火] 三菱一号館美術館 & TOTOギャラリー・間 & Bunkamuraザ・ミュージアム

明けましておめでとうございます。
旧年中はお世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。

昨年暮れに見た美術展の感想を、3つ合わせて簡単に。

12/18、丸の内の三菱一号館美術館で「全員巨匠!フィリップス・コレクション展」を見る。
「フィリップス・コレクション」はアメリカのダンカン・フィリップスが創設したコレクションで、1921年にワシントンでアメリカで近代美術作品を扱う最初の美術館として開館、と展覧会のチラシにある。
タイトルに「全員巨匠」とあるように、次から次へと著名画家の作品が出てくる。
羅列してみると、シャルダン、ゴヤ、アングル、ドラクロア、マネ、コロー、クールベ、ドーミエ、シスレー、モネ、ゴッホ、スーラ、セザンヌ、ゴーガン、ドガ、ピカソ、ルソー、ボナール、デュフィ、ブラック、カンディンスキー、クレー等々。
確かに見るべき作品、おもしろい作品が多いように思う。少なくともこちらの趣味とは結構合う。
個人的に印象に残ったのは、まずはジョルジュ・ブラック。
今まではなんだかキュビズム的作品の記憶ばかりで、いやそれも悪くはないし、今回の出展作もそれらしい作品がいくつかあったが、さほどキュビズムを意識せずに見られるものが目についた。幾何学的でありつつ形状が具象的でシンプルでとっつきやすい。
もうひとりはボナール。いくらか前に個展を見てきて間もないが、今回のほうが、なんというか、印象度は強かった。つまり他の、傾向の異なる画家と並べられると、その個性が際立つというタイプなのかもしれない。「開かれた窓」「棕櫚の木」の2作に見られる、色遣い、様々な色彩が微妙に溶け合った様相、そして開放感は他ではなかなか得られない。

ほかに、今までまったく知らなかった作家の作品、ロジェ・ド・ラ・フレネの「エンブレム(地球全体)」はキュビズムの画家らしいが、この作品は、難解さはまったくなく、一種のユーモアとシンプルゆえの潔さ、そして薄明るい色彩の妙も手伝って、温かみのある作品に仕上がっている。
https://mimt.jp/blog/official/?p=2919

ということで、高水準の作品ばかりで、非常に満足度の高い展覧会だった。2019.2.11.まで。


https://mimt.jp/pc/


12/20、乃木坂のTOTOギャラリー・間で「田根剛 | 未来の記憶 (Archaeology of the Future) Search & Research」を見る。
11月に東京オペラシティギャラリーで見た展覧会のヴァージョン違いというかリミックスというかといった趣の展覧会。こちらは規模もオペラシティギャラリーより小さめ。そのせいか、はたまた会場の性格のせいか、入場は無料。見る方としてはありがたい。
会場は2F?に分かれていて、まずは3Fへ。3Fでは、オペラシティギャラリーと同様に、様々な発想にヒントの源泉になったような写真やイラストや資料のような類が所狭しと壁に貼り付けられ、その間の空間に、田根のこれまでの、あるいは進行中の建築プロジェクトの模型が並ぶ。さらにその外、つまり屋外の空間にも、さらに模型が並ぶ。趣向はオペラシティギャラリーと同じだが、空間が狭いせいで展示の印象は濃密になる。
その後、階上に向かうと、靴を脱ぐように言われ、広いワンルームみたいながらんとした部屋に入ると数人が床に直接腰を下ろして、上下を除く四面の壁に映し出される映像を眺めていた。その中に入る。
オペラシティギャラリーでも建築プロジェクトの映像は行われていたが、こちらのほうが、座って眺めるせいか、より「近い」印象。「近い」ということは「大きい」ということにもなる。壁に背中をもたせかけて映像を眺めていたのだが、その背中の壁にも映像は映し出されるのだ。ともかくも迫力は感じた。身体的体験に近い映像体験。

建築家の展示は、やはり今回も「当たり」だった。昨年12/23で終了。

https://jp.toto.com/gallerma/ex181018/index.htm


同じ12/20、その後、渋谷へ周り、Bunkamuraザ・ミュージアムで「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア」を見る。
実は、チケットを買ったときは「エルミタージュ」みたいにロシアの美術館所蔵の西洋絵画展みたいな趣かと勘違いしていたのだが、実際に足を運ぶと、全部ロシア人画家の作品だった。たぶん。
制作年度が19世紀中葉から20世紀初めくらいの作品が並ぶ。
文化的に見て、ロシアをヨーロッパの「辺境」と呼ぶのが適切なのかどうかわからないが、そうだとしたら、そうした一種の「辺境性」が表れた展覧会だったように思う。出展作品が、その時代のロシア人画家の代表的なものなのか、ある基準に合わせて選ばれたものかがわからないので何とも言えないが、全体に技術的には優れているが、趣向や画風は素朴で写実的と言えそう。

一般的な西洋美術史では、この時期、ドラクロア、ゴヤ等のロマン主義、ミレー、クールベ等の写実主義、印象派、ナビ派、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン等のポスト(後期)印象派、モロー、ルドン、ムンク等の象徴主義、また世紀末には、ジャポニズムやアール・ヌーボー、アール・デコも。
20世紀に入って、ピカソ、ブラック等のキュビズム、表現主義、マティス等のフォーヴィスム、カンディンスキー、モンドリアン等の抽象派あたりが含まれるようだが、出展作品は上記のように、写実的なものが多く、時折、印象派風、あるいはポスト印象派風というのが交じるという感じか。
まぁ細部を見れば、往時のヨーロッパ美術の潮流の様々な影響の指摘も、おそらく可能ではあろうが。
そういう印象もあり、全体にはなんだか牧歌的で、いい意味で「懐かしい」感じを呼び起こした。
個人的に気に入ったのは、ドゥボフスコイ「静寂」、ミャソエードフ「秋の朝」、J・G・バラードを思わせるサヴラーソフ「霜の降りた森」というところか。
いや、おもしろかった。

1/27まで。

http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/18_russia/

2018.12.26[水] 世田谷美術館 「ブルーノ・ムナーリ 役に立たない機械をつくった男」

11/27、世田谷美術館で「ブルーノ・ムナーリ 役に立たない機械をつくった男」を見る。

「吉村芳生展」と順番は逆になったが、こちらも簡単に。

ムナーリはイタリアの画家、デザイナー、あるいは工芸家とでもいうべき側面をももつアーティスト。
1920年代末に「未来派」と呼ばれる一派の一員として活動を開始したとチラシにはある。昔、坂本龍一のアルバムに「未来派野郎」とかいうのがあった気がするが、「未来派」については無知である。でも「役に立たない」というところがいい。何でも「効率」とか「有効」とか言っていればいいというものではない。

形状は幾何学模様が多く、シンプルながらユーモラス、色彩の組み合わせもおもしろい。
絵本も制作、その活動や作品のすべてに「遊び」の感覚が宿る。
誰にでも、ちょっと工夫すればできそうな(でも実際はむろん難しい)ところもいい。

ちなみに展覧会は9つのチャプターの別れている。その各々の章題を記してみる。
プロローグ:未来派の頃
絵はあらゆる箇所が生きている
子どもはすべての感覚で世界を認識している
どんな素材にもファンタジアへのヒントがつまっている
考古学のアイディアを微術の領域に取り入れる
みんなの美術にたどりつきたかったら
作品は無限の変化の一つとして出現する
どれほど多くの人が月を見て人間の顔を連想するか
エピローグ:アートとあそぼう

こうして並べてみるだけで何となくムナーリの発想と作品のイメージの輪郭くらいは想像できそうな気がする。

来年、1/27まで。

その後、階上の所蔵館展へ。今回は「アフリカ現代美術コレクションのすべて」。これも結構見応えあり。ダイナミックな作品が多く、おもしろかった。

帰りに砧公園で紅葉の写真でも撮ろうかと思っていたのだが、まずはすっかり暗くなっていたのが計算違い。さらに、今年は秋や冬の初めが暖かかったせいか、思ったより紅葉が進んでいなかったので断念。

https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00191

2018.12.21[金] 東京ステーションギャラリー 「吉村芳生 超絶技巧を超えて」

12/6、東京ステーションギャラリーで「超絶技巧を超えて 吉村芳生」を見る。この作家のこの美術館所蔵作品は見たことがあよるな気がする。でも名前までは覚えていなかった。
鉛筆、色鉛筆によるドローイングと、エッチングやシルクスクリーン等の版画作品が中心。

作風はいわゆる「スーパーリアリズム」的なそれだが、作品を見ると、これが尋常ではない。
たとえば1年間毎日自分の写真を撮り、写真を見ながら鉛筆でそれを再現していく。
あるいは17mの金網を一旦、紙にプレスした上で、延々と鉛筆でその痕跡をたどっていく。
あるいはジーンズをモノクロ写真に撮り、引き伸ばし、方眼紙状に升目を切り、升目ごとに濃度を決め、一つ一つ、方眼紙の升目に濃度を表す数字を埋めていく。方眼紙に透明フォルムを重ね、数字に対応する斜線の数をインクで引く。

なんだか一種の「修行」であり、言い換えれば「祈り」に近いものを感じる。
重要なポイントの1つは、作家が直接、対象に向かっていないということだろうか。彼が描く対象は「写真」であり、プレスされた金網の「痕跡」なのだ。もしかしたら自身の作家性を排するためなのかもしれない。世界をできるだけ高い「客観性」でもって描く試みだったということも。
見に来た女性客の一人が冗談めかして「発達障害」じゃないかと言っていたが、ちょっと口の悪い、不穏当な発言だと思うが、言いたいことはわからんでもない。

その高い集中度の継続とある種の「信念」は常識的なレベルをはるかに超えている。ただ、芸術家や表現者というものは常識を超えないとやっていけない部分はあるわけで、個人的には「発達障害」に見えたとして「それがなんぼのもんじゃい」という気はする。だからそういう言い方はしたくない。

ともかくもそこには何か異様な熱を感じる。しかしそこには感情的な温度はほとんど感じない。言わば「冷めた熱」。自身の取り決めの中でやるべきことを淡々とやった結果が作品になっただけという「クールさ」も感じないでもない。

そのモノクロの世界が、35歳で郷里、山口へ帰ってから、変化する。
鉛筆が色鉛筆に変わり、描かれる対象は花々になる。バラ、コスモス、タンポポ、ヒマワリ、ケシ、藤、等々。色鮮やかな花が、しかしモノクロの際と同じように、やはり升目を切った上で精密に描かれる。63歳で亡くなったときに手がけていた遺作には線で区切られた升目が残っている。

色とりどりの花々を対象に選んだのには「売りやすい」という経済的事情もあったようだ。そしてここでもおそらく、直に対象をえがくのではなく写真を基に描かれたようないわゆる「ボケ」のような描写がある。また、その意図は不明のようだが、完成した作品の上からガムテープや紙ヤスリでわざと色を落とすような細工が施されたものが多く見られもする。もしかしたら写真に映し出された陽光の反射等の表現なのかもしれない。
ここで作品のキャプションで吉村自身が「花はあの世を表す」というような意味のことを語っていたとあり、いくらか、前半のモノクロの世界をも併せた作品が作家にとって何に通じるかがわかっったような気にもなった。
つまり、極力自身の個性を排除した上で世界を「写す」ことによって作家は「あの世」、言い換えれば「イデア」の世界を描き出そうとしたのではないか。
むろん、写真等々を媒介させることは、イデアというより「現実」に降りてきた「像」といったほうがいいのだろうが、それでも自身の「不確かな」(むろんだからこそ「おもしろい」わけではあるが)感覚をできるだけ排除し、そしてカメラという感情や情緒から自由な「機械」が創り出す「イメージ」に対して「イデア」に代替できるものを感じとったということはありうる。本人がどう思っていたかは別にして。

さらに、そうした仕事の一方で、新聞の一面をまるごと鉛筆で模写したり、そこに自画像を書き足すといういう「作品」を制作したり、あるいは新聞紙面をキャンバスに、表情を違えて自画像だけを描いていく作業を1年365日継続したりと、とかくやることがとんでもない。

この新聞絡みの作品については、新聞という、「世界」を象徴する存在の上に自画像を描くということにより、作家にとっての実際の「世界」が現れるということだろうと思う。

これを敷衍して他の作品群にも当てはめると、作家が目指したのは、世界そのものの精密描写ということになる。
場合によっては「イデア」を覗き込み、またある場合には、「世界」という日々刻々と変化する状況そのものに対峙し、あるいは、世界を自身と重ねるために毎日の新聞の上に自身を描くという「儀式」を選択したということではないかと。

「世界そのものの細密描写」と言ってみれば、比較的シンプルに思えるが、吉村が選んだ、かように徹底した方法論とそれを実行する精神力の結果であるその作品を目の当たりにすると、ことはさほどシンプルには思えなくなる。

我々は、作品と同時に、作家のあり方のその「徹底性」にこそ、驚くのだと思う。

来年1/20まで。お時間があればぜひ。

http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201811_yoshimura.html

2018.12.16[日] 川崎アートセンター 映画「ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ」

11/29、川崎アートセンターで映画「ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ」を見る。

随分、間が空いてしまった。ちょっと仕事が立て込んでいて時間がなかなか取れなかったのだ。

フレデリック・ワイズマン監督、録音、編集、制作とチラシにあるから映画制作のほとんどを自身で手がけているということか。いわずとしれたドキュメンタリー映画界の巨匠。
ワイズマンの映画で見た記憶があるのは2015年に見た「ナショナル・ギャラリー 英国の至宝」だけだと思う。
ワイズマンが「ジャクソンハイツへようこそ」を撮ったのが2015年とあるから3年遅れの公開。御年88歳のワイズマンは、その後2017年、2018年と新作をすでに完成させているようだ。すごい。

で、今作のテーマだが、ニューヨークのロングアイランドにある「クイーンズ」と呼ばれる地区の町、ジャクソンハイツ。
チラシによると、100年ほど前にマンハッタンに通勤する中産階級向けに宅地開発された町だったそうだが、60年代後半から移民が住みはじめ、今や住民の半数は移民とのこと。多様性の町なのだ。なんと167の言語が話される。最近ではマンハッタンやブリックリンの地価上昇で人気を集めて、再開発が進んでいるらしい。というのが一通りの町の紹介。
したがって映画でも、この移民の町で移民を中心にカメラが向けられることになる。
教会、モスク、レストラン、集会、コインランドリー、道端、政治家のオフォス等々、多様な町に見合うようにこちらも実に様々。聞こえてくる言語でたぶん最も多いのがスペイン語。中南米からに移民が多そうだ。
ほかにセクシャリティとしてのマイノリティ、いわゆるLGBTも何度か登場。

撮り方で感心したのが、ある1つの話題はその話題が一段落するまでカメラを回し続け、実際に映像として構成するところ。だから話題が中途半端にならない。単に話題を「見せる」だけに終わらせない意志を感じる。けれど、そのせいで映画の尺は長くなるのは仕方ない。この映画、189分ある。
町は多様性の故、あるいは再開発の問題も加わって、多くの問題を抱える。
移民、LGBTへの差別、再開発による店舗の立ち退き、貧富の格差、その他その他。
住民はそうして問題について本当によく喋る。映画の大半が「議論」や「スピーチ」の印象があるくらい。
映画の中で最も印象的なシーンの1つとして記憶に残っているシーンがある。
癌を患って余命宣告された父親を病院に見舞うある女性が、父のために祈ってくれないかと、たぶん偶然出会った見ず知らずの町の女性たちに頼むシーンがある。それに対して輪になった彼女たちの一人が、見事なスピーチをして祈りを捧げる。
宗教の力を感じた場面だった。
そして、いい悪いとは別に現代日本ではまずお目にかかれない光景だろうと思った。
住民、つまり移民たちの心情や訴えをすくいとった上で町を描こうとした作家の意図がきちんと見て取れる、質の高いドキュメンタリー映画だった。すばらしい。

そして最後の短い花火もやはり。

http://child-film.com/jackson/

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