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豆腐に柳

 音楽、書物、映画、美術展等の感想、その他日々のあれこれ

2020.02.16[日] TOHOシネマズららぽーと横浜 「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」

2/6、TOHOシネマズららぽーと横浜で「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」を観る。
監督はテリー・ギリアム。キャストに、アダム・ドライバー、ジョナサン・プライス他。
原題は「ドン・キホーテを殺した男」。
何でも構想30年、頓挫9回の呪われた企画らしい。そういう企画は大体陽の目を見ることなく終わってしまうことが多いが、今作はめでたく完成。
どうやら元ネタはセルバンテス自身が描いた、「ドン・キホーテ」の続編というか「後編」らしい。

話の結構はオフォシャルサイト等で確認していただきたいが、ざっくり紹介しておく。
プロットや展開の重要なところにも触れるのでご注意を。

アダム・ドライバー演じるCM監督トビーがスペインで撮影中に、ある男からたまたまDVDを受け取る。それはかつて彼が学生時代にスペインで撮った映画「ドン・キホーテを殺した男」だった。
彼はかつてその映画を撮った町に向かい、そこで「ドン・キホーテ」を演じたハビエルに出会う。彼はすっかりドン・キホーテになりきっていた。トビーをサンチョ・パンサと思い込んだ彼とトビーの旅が始まる。
その過程で、かつての映画のヒロインだったアンジェリカとも出会う。彼女はその後女優を夢見てマドリードへ出たという。
さらに何やかやとドン・キホーテの巻き起こす騒動に巻き込まれつつ旅を続けるが、不慮の事故で「ドン・キホーテ」ことハビエルは亡くなってしまう。
そしてラストシークエンス。
ハビエルを埋葬するため村へアンジェリカと旅を続けるが、今度はトビーにドン・キホーテが憑依し、アンジェリカがサンチョ・パンサになり、旅はさらに続く。

映画の実体、つまりエンターテイメントを担うのは先述の「なんやかや」の冒険譚だろうが、やはり最もぐっときたのはラストシークエンス。
「妄想」や「夢」は人から人へと引き継がれるということだ。それが多くの人にとって滑稽で時代遅れで価値のないものであったとしても。たぶん夢や妄想のほうが人を選ぶのだろう。
むろんそれらは、無害なのものばかりではない。邪悪なものだってたくさんある。
しかしそういう風にして「歴史」は綴られてきた。

悪くない。
最後で、これはいい映画だと思えた。

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2020.02.11[火] 東京都美術館 「ハマスホイとデンマーク絵画」

1/30、「窓展」の次に上野へ周り、東京都美術館で「ハマスホイとデンマーク絵画」を観る。
美術館に着いた時点で閉館時間の70分ほど前だったので、ちょっとせわしないなと思ったものの、何とか一通りは周れた。
前半が、19世紀から20世紀初頭にかけてのデンマーク絵画。こちらもそれなりに面白い。デンマークという、ヨーロッパ絵画芸術にとっておそらく「辺境」ならではの素朴さ、いなたさと、時代や流行に左右されない、ある種の普遍性と中途半端な「独自性」がないまぜになった感がある。
まぁこちらがそういう目で観ているからということもあるやもしれんが、やはりパリの画家とは異なった何某かを感じる。
以前見た、ベルギーやスイスの画家とも違ったものも感じないでもない。

そして後半がハマスホイ。40点ほど。
これが私にとってはかなり「衝撃」だった。
初期には風景画や肖像画も描いていたとのことだが、ある時期から室内画が中心になる。それもほぼ自宅を描いたものが多いらしい。
人物がまったく描かれない作品も少なくない。描かれていたとしても、後ろ姿が目立つ。
室内は、極めてシンプルな調度や家具しか描かれず、場合によっては家具さえないものも。
その多くの作品が、フィルターのかかったような、絵画を構成する細かな粒子が滲み出したような、描き方がなされている。ただ、だからといって、おぼろではかなげなな印象ばかりではない。
時の止まったような、でも耳を澄ませばそれがちりちりと積もってゆくのを絵画で表現しようとしたかのような繊細さと静寂が感じ取れる。
明るい陽射しを描いた場合も、何かが一旦「停止」してしまった後が描れたような感覚が拭い去れない。
そう光と影は施し方はかなり重要な要素だろう。
何か、時空そのものを描こうとしたかのような。
ただ一方で、人間が生きる「やるせなさ」を感じさせるところも。
何がそう思わせるのか定かではないが、これは今まで接したことのない絵画だと思う。
もしかしたら、東洋の宗教観や死生観に通じるものもあるかもしれない。
いずれにしろ、描かれた「世界」に「現世」とは異なる感触を感じたのは確か。

いや、ぜんぜんまとまらないが、「衝撃」ではあった。


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2020.02.11[火] 東京近代美術館 「窓展:窓からはじまるアートと建築の旅」

1/30、竹橋の東京国立近代美術館で「窓展:窓からはじまるアートと建築の旅」を観る。
いくらか前に堀江敏幸の「戸惑う窓」という、様々な芸術作品の中の窓に焦点を当てたエッセイとも評論とも場合によっては小説ともつかぬ作品を読んでいたこともあって、楽しみにしていた展示だったが、なかなか観られず、半ば諦めかけていたのだが、何とか会期に間に合った。

バスター・キートンの映像作品から始まり、藤本壮介の建築で終わる展示は、思っていたよりずっと刺激的でおもしろかった。
作品は本当に多岐に渡り、クレー、マティス、ボナール、岸田劉生、ロスコといった絵画作品はもとより、アジェ、ドアノー、奈良原一高、ホンマタカシ等の写真、またゲルハルト・リヒターのガラスを使ったインスタレーションや1980制作のリプチンスキの実験的な映像作品等の現代アートや建築関連の出展も。
で、改めて、ロスコとリヒターは個展をぜひ、というふうに思った次第。

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2020.02.10[月] イオンシネマ新百合ヶ丘 「ジョジョ・ラビット」

1/29、イオンシネマ新百合ヶ丘で「ジョジョ・ラビット」を観る。
監督は、タイカ・ワイティティ。
キャストには、知っているところで、スカーレット・ヨハンソン、サム・ロックウェル、そして監督自身も。
タイトルだけは耳にしていたが、やはりアカデミー作品賞ノミネートで、じゃ観るかという気になったのは確か。
主人公は、第二次大戦中のナチスが統制下におけるドイツの10歳の少年ジョジョ。ナチの青少年組織「ヒットラー・ユーゲント」で「立派な」兵士になるために訓練に励んでいる。
というより少なくとも映画を観ている限り、遊び半分で、大したことはやっていないようにも見えるが、そこで教官にうさぎを殺すように指示されて、できなかった少年につけられたニックネームが表題の由来。
彼には、空想上のアドバイザーというか友人みたいな存在がいて、それがなんと総督アドルフ・ヒトラー。
ヘアスタイルと髭以外は実物に全然似ていないワイティティが演じるヒトラーは、たぶん本物よりいくぶん「フレンドリー」にも見えるがヒトラーはヒトラーだ。
そんなジョジョが、たまたま自宅に母親(スカーレット・ヨハンソン)がかくまうユダヤ人少女(といっても高校生くらいか)を発見してしまうところから映画は展開し始める。

基本的にはコメディ仕立てではあるが、何せ「ナチ」と「ヒトラー」と「ユダヤ人」だから観ている私たちは史実に基づいた様々なことを想起する。しかし映画はそれ以上に踏み込まない。戦闘絡みのシーンも後半出てくるが、これは基本的にそういう映画ではないということだ。
その代わりに、当たり前だが、ナチ統治下のドイツ人も我々と同じように「ふつう」の人々であることをそっと教えてくれる。大日本帝国が戦った戦争の渦中にある市井の日本人が「ふつう」の人々であったように。
外から付与された「思想」や「イデオロギー」ではなく、生身のパッションやエモーションで人は動く。
あくまでこの映画は、過酷な現実を背景にしていながら、ドイツ人少年の成長を描いた一種の「ビルドゥングス・ロマン」として仕上げられている。

それをどう感じるか考えるかは人それぞれだろう。
私は悪くないと思ったが、それ以上でもないかも。
ただ、ビートルズとデヴィッド・ボウイの楽曲の使い方には感心した。
そのタイミングと誰でもが知っているわけでもないあのヴァージョンを使ったことにも。

あと、ここでもサム・ロックウェルがいい味を出している。さらにスカーレット・ヨハンソンも。

ただ最後に、ハリウッドの映画だから仕方ないとも言えるのだろうが、ドイツ人がなんで英語喋っとんのやという違和感は最後までぬぐえなかった。
字幕にすればいいだろうと思うがそういう文化は一般的でなないのだろう。結局大半の映画を、アメリカの方たちは「吹き替え」的手法でご覧になっているということだ。字幕方式に慣れた私たちの多くはそれにある一定の違和感を覚えるのだが、彼らはそうではないのだろうか。


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2019.11.11[月] 川崎アートセンター 映画「ドッグマン」

10/1、川崎アートセンターで映画「ドッグマン」を観る。イタリア映画。
監督はマッテオ・ガローネ。2018年のカンヌやイタリア国内で様々な受賞を果たした作品とのこと。この監督作品の前2作もカンヌで受賞しているらしい。

タイトルは、主人公マルチェロが田舎町で営む犬のトリミングサロンの名前から採られている。
マルチェロはどうやら離婚しているようだが、娘と元妻との関係は悪くない。町の住人とおしゃべりをしたりサッカーをしたりとそれなりに良好な市民生活を営んでいる。

そんなマルチェロにはシモーネという、必ずしも良好ではない関係の「友人」がいる。町のごろつきで何でも暴力に訴えようとする輩である。
シモーネとマルチェロは、簡単に言えば、搾取する側とされる側の関係である。ただそれをマルチェロがどう思っているかはよくわからない。単に小心ゆえか報復を恐れてか、それとも彼にも「小狡い」ところがあるからか、はたまた他に理由があるのか、シモーネにクスリを調達したりと、腐れ縁的な関係から抜け出せない。あるいは抜け出さない。
ある時、シモーネに頼まれ断りきれず、結局彼の犯罪に加担することになり、シモーネの罪も引っ被る形で服役することになる。
出所したマルチェロがシモーネに「分け前」を要求してもシモーネは意に介さない。
「犯罪」はマルチェロの隣人を狙ったものだった故、彼らから「裏切り者」として蔑まれたマルチェロは、最後、本人の意志には必ずしも一致しない(意識しない本音ではあったかもしれないが)形で「窮鼠猫を噛む」を果たす。
そこからのシークエンスがかなりすごい。
一旦ああなったものが、いくらそうしたところでああなるというのはどうかなというところはあったが(意味不明で申し訳ないが)、ラストシーンの「寄る辺なさ」「途方に暮れる」感は見事。
「神話」みたいという評は頷けける。
神話的であり、一方で現代の我々の生のあり方を寓話的象徴的に描いたとも言える。まぁ結局おんなじかもしれないが。

後味はいいはずはなし、希望もよくよく探さないと見つからないかもしれないが、それもこの時代を映し出している。
最後に。映像の美しさは特筆モノだった。それでも世界は美しい。のかもしれない。

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