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豆腐に柳

 音楽、書物、映画、美術展等の感想、その他日々のあれこれ

2019.04.21[日] Bunkamuraル・シネマ 映画「希望の灯」

4/12、Bunkamuraル・シネマで映画「希望の灯り」を見る。
ドイツ映画。監督はトーマス・ステューバー。原作。脚本はクレメンス・マイヤー。
東西統一後の旧東ドイツ、ライプツィヒ近郊のスーパーマーケットが舞台。これがなかなかよかった。
ちなみに、原作は新潮クレストブックのシリーズで翻訳も出ていて「夜と灯りと」所収の「通路にて」というタイトルの短編。ただamazonでは品切らしい。

スーパーマーケットで働くことになった27歳のクリスチャンとその周辺の人たちとのほのかな交歓。
クリスチャンは無口で口下手。それにはある理由も絡んでいる。マリオンという既婚年上の女性への好意、先輩ブルーノのぶっきらぼうな優しさ。
練習中のフォークリフトの動きがクリスチャンの気持ちを代弁しているようなところも。
いくばくかの紆余曲折も。そして終盤、彼らに一つの大きな「悲劇」が訪れるが、それでもラストはほのかな「希望」を感じさせ、何だかひたひたと沁みてくるものが感じられる。

音楽の使い方にも感心。センスがいい。ガランとした夜のスーパーマーケットに響く「美しき青きドナウ」には誰しも「2001年」を思い浮かべる。
そして映像そのものも。何気ないショットやシーンに見えて、かなり計算され配慮が施されている。
スーパーの周辺として時折映し出される広大な土地の映像も「美しい」が、一方で放置され未開発のままの状況をも示している。
社会的な、そして歴史的な背景を映し出しながら、それぞれに「問題」を抱えて生きる人々の生活を描き出す映画の温度は人肌ほどに温かい。
この「温度」の調節は意外に難しいが、これはまことに適温だった。

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2019.04.18[木] 4月に見た展覧会の感想をまとめて。

4月に見た展覧会の感想を4つまとめて各々簡単に。


上野の東京国立博物館で「特別展 東寺 空海と仏像曼荼羅」を見る。
展示物には、国宝た重要文化財多数らしい。
京都の東寺は真言密教の「根本道場」とされた寺院。
展示の第一会場の1章から3章は絵画や資料的な展示中心で、第二会場の、3章終盤からの仏像群がやはり目を引く。最後の4章の立体曼荼羅はさすがに圧巻、壮観。

珍しく1体だけではあるが「帝釈天騎象像」が撮影可能だったので写真を撮る。が、どうしてこの国宝だけが撮影可能でほかがそうではないのかはまったくわからない。
その帝釈天さん、結構な男前だった。今回はでも全体に整った顔立ちの仏像が多かった気がする。あと明王はみなかなり怖そう。
今回、改めて、如来、菩薩、天、明王の性格の違いを示したパネルがあったので確認。勉強になりました。でももう記憶が薄れてきたけれど。

平日の割に混んでいたのは仕方ないか。その後花見客で賑わう上野公園でソメイヨシノの写真を撮る。桜は満開だった。今年は2度も花見をしたことに。


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休日で美術館をはしご。
まずは竹橋の東京国立近代美術館で「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」を見る。
画家は戦前から戦後80年代くらいまで活動し、シュールレアリスムを日本に紹介したことでも著名とのこと。

最初は彫刻家を目指したが、その後画家に転身。たしかにシュール的な画風もうかがえるが、社会風刺的な要素が強い。ただ、絵画を見ただけでは何がどうなっているのかよくわからず、説明されて初めてわかるという作品もあり、ちょっとどうかなと。

画風も割にワンパターンだなと思いつつ、順路に従って進むと、まずは終戦を機にかなり画風が変わる。「敗戦群像」という作品ではそれまでのどことなくスタティックな佇まいから色彩も含めて「強さ」、あるいは明確な「意図」を感じる。

会場のキャプションには「モノ」として扱われる人間云々というようなことが書かれていたが、個人的には折り重なった人々にすごく人間的でエモーショナルな何某かを感じる。描き手の題材へのパッションは明らか。
さらに南米の先住民族に触発された作品群では、さらにがらっと造形も色遣いもヴィヴィッドに変わる。まったくそれまでと別の画家のよう。おもしろい。そういうタイプの作家なんだな。

批評的な視点を活かした作品はその後も描き続けたようだが、やはり戦後という時期や南米にインスパイアされた絵画の、躍動感のあるもののほうが魅力的に映る。


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その後、新橋へ移動。
パナソニック汐留美術館(名称変更したらしい)「ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち」を見る。
モローは象徴主議の画家で、神話や聖書をテーマにした幻想的作風が特徴。今回のテーマは「女性」。それもいわゆるファム・ファタルである。

会場のパネルにあった說明によれば、そもそもモローにとって母親ポーリーヌの存在が非常に大きかったよう。また恋人アレクサンドリーヌの存在も。彼らは控えめで慎ましやかだったという話だが、そこを反転してサロメのような「強い女」を描くのは不思議なことではない。

そのサロメの絵画は数点あったが、腕なんか見事なほどにたくましい。妖艶でかつ「強い」女を描くことへの源泉はやはり「グレート・マザー」の存在だったのではと思った次第。むろんそこには愛情とともに畏怖の念もあったはず。
画風はテーマがテーマなだけにリアリズム的なそれとは対照的で、曖昧さ、いわば「幻想性」の余地を残したもので、だから、たとえば斬首に関わる「陰惨」なシーンも、ユニコーンのようなファンタジックな存在も、描けてしまう。というよりそういう「要請」に基づく画風ということだ。

ただ展覧会自体は、習作や未完成が割に目立ったせいか、70点くらいを1時間くらいで見終わってしまった。
そういう意味でいくぶん物足りなさも。
でも、正直なところ「タイプ」外だったにも拘わらず、おもしろかったのも確か。


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府中市美術館で「春の江戸絵画まつり へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」を見る。
最初はさして触手が動かなかったのだが、ネットの記事を読んで、これはおもしろそうだなと思って見に来る。
で、思っていたより数段おもしろかった。

冒頭でいきなり海北友雪の「雲龍図襖」の片方だけ(もう片方は修復中とのこと)でも巨大な龍の、つぶらな「カメラ目線」に目を奪われる。襖絵だからサイズは相当にでかい。

それ以降、時代的には16世紀くらい以降の様々な、おとぼけ、腰砕け、お茶目、シュール、一見まともに見えてどこか変、単なるへたくそ、意外にまとも、等々と言いたくなるような作品が次から次へと出てくる。美術館の展示を見ていてこれほど「楽しく」「笑える」展示は初めてだ。ほぼ、作品ごとに声には出さずともクスクス笑っていた。

殊に印象に残ったのは、仙崖義梵、長沢芦雪(これは意外だったが、子犬が太ったネズミみたいなのだ)、徳川家光、徳川家綱(この親子はかなり強力)、そして蛭子能収。これら以外にもかなりの「掘り出し物」が多数。

ああ、漱石の作品も1点だけあってこれもかなりおかしかった。
前後期に分かれた後期が始まった初日だったのだが、後期にかなり入れ替えがあったらしい前期を見逃したのを後悔する。でも後期だけでも見られてよかった。ともかく企画のすばらしさに感心。

その後所蔵館展を見る。こちらも悪くなかった。5/12まで。

それから、府中の森公園を散策。桜もだいぶ散り、葉桜になりつつあるもののそれでもまだ結構残ってはいる。そのほかに辛夷や桃?(たぶん八重桜or牡丹桜だろうと後で分かる)、花壇にはチューリップやパンジーも。いい天気だったので樹々の中を歩いているだけで気持ちよかった。ちょっと気の早い鯉のぼりが風に吹かれて泳いでいた。


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2019.04.05[金] ユーロスペース 映画「セメントの記憶」

3/25、渋谷のユーロスペースで映画「セメントの記憶」を見る。
監督・脚本はジアード・クルスーム。原題は「Taste of Cement」。
映画サイトを見ると、レバノンへ亡命した元シリア兵で、現在はベルリン在住。映画大学卒業とのこと。
一応の体裁は、レバノンの首都ベイルートの高層ビル建設現場で働くシリア人労働者をテーマにしたドキュメンタリー映画。
で、これがすごかった。

レバノンは75年から90年まで内戦が戦われ、首都ベイルートも東西に分裂した歴史を持つ。実はレバノンは1941年の建国当時からシリアと深い関わりをもっていたと Wikiによって今回初めて知ることになった。
さらに、ベールートがかつて、内戦までは「中東のパリ」と呼ばれた町であること、内戦後の現在は映画にもあるように再開発が行われているということも。

ベイルートで働いていた父親の思い出をシリア人労働者が語るナレーションが入る。
父親が持ち帰った1枚の絵画。絵に描かれた海が初めての海の記憶だ。顔を撫でてくれた父の手はセメントの味がした。それを今度は自身が同じベイルートで思い起こす。
彼はシリア内戦で瓦礫を口や鼻や目から吸い込む。そこでもセメントの味が。それが彼を蝕む。
「セメント」のもつ「破壊と建設」の両義性。

彼らシリアからの労働者は仕事が終われば地下の閉ざされた空間で、生きるための最低限しかない、劣悪な環境で過ごし外出も許されず、朝になると仕事のため地上に出てエレベーターで高層階まで上がる。
彼らはそこでTVの画面でシリアの惨状を見る。瞳に映像が映る。
ナレーションの「彼」には名前も与えられていない。それがここでの労働者の位置付けであることを示すかのように。

しかしそこから見える景色を捉えたシーンはすばらしい。
高層ビル建築現場の足場の向こうに広がる美しい町並み、いくぶん霞む海、それらが「彼」の瞳に映るショット。瞳の中に映る町や海、そして陽光。その向こうには故国や家族が見えている。どう見ても「彼」はそこを見ている。でも帰れない。そして目の前の美しい町も彼らには手の届かないものでしかない。

映像は鮮烈だ。
高層ビルの、下から見上げるようなショット。地下から眺めた、地上に労働者が出るために空けられた出入り口の形に切り取られた朝の光。高層ビル上階から見える町や海。内戦時に砲撃を受けた建物に開いた楕円の穴から見える高層ビル、そして背景の青い空。夕闇の町。ドローンで撮ったのか、それとも別のビルから撮影したのか、建築現場のクレーンの先端から伸びた突起物と背景の海。地下の空間にある階段とコンクリートの柱が、床の水溜まりに映し出されて上下に「対称」になるシーン。
クローズアップで撮られたシーンが少なくない。
光の使い方に非常に長けている印象。アングル、構図、明暗。息を呑む思いで映画を眺めていた。


人の声は、特定されるような声はほとんど聞こえない。
地下で休む労働者も、記憶にある限り沈黙したままだった。まるで被写体であることを拒むかのように。何か話すことで自分やシリアにいる家族等に危害が及ぶ可能性を恐れているからだという記事も読んだ。

そのせいもあるのかもしれないが、映像、つまりシーンやショットの各々がその場のもつ多様で繊細で複雑な「様相」や「意味」を見る者の感覚器官に直接刷り込むようなところがある。それはセメントの「匂い」ではなく「味」とあえて表現する意図とおそらく重なる。
詩的、という言葉はおそらくこの映画を見た多くの観客の脳裏に浮かぶはず。

そしてシリアのシーンへ。
瓦礫と化した町を戦車が進む。戦車の主砲のすぐ後ろから撮ったようなシークエンス。戦車は砲撃を何度か繰り返す。これはどういう種類の映像なのか。この戦車はそもそもどの組織のものなのか。
シリアのシーンは国内に残る監督の知人に撮影してもらったというインタヴュー記事も読んだが、戦車となるとどうなのか。

さらに、画像の粒子が粗くなってカメラアイはもう一度シリアへ。何だか福一の原子炉内の入ったロボットが撮った映像みたいだ。瓦礫に埋もれた町で生存者を必死で救出しようとする人々を映し出すカメラ。やがて再び画像の粒子が粗くなり、視線はベイルートへ。

車に搭載されたミキサーに据えられたカメラは行き過ぎる町を回転しながら映し出す。天地が廻り左右が廻る。世界が廻る。
ベイルートが、シリアが、そして世界が一刻もとどまることなく変わりつづけていることを、それが私たちの視界や視線を変えていることを示すかのように。
シリアとレバノンが、あるいはベイルートがいつ入れ替わるかわからないことを、それは日本も東京もパリやロンドンやNYだって同じであることを示している。

しかし、ここで捉えられた映像が、ベイルートにしろ、シリアにしろ、ひとときの平和と繁栄の中の過酷な労働にしろ、現在破壊されつつある戦時下でさえもが、みなそれぞれに「美しい」と感じたなら、見る者はいったいどうすればいいのだろう。それもこれほどに「美しい」と感じてしまったのなら。途方に暮れてしまう。


打ちのめされた。少し時間をおいてたぶんもう一度見ることになる。
映像の力を再認識した。

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2019.03.31[日] TOHOシネマズららぽーと横浜 映画「ブラック・クランズマン」

鴨居のTOHOシネマズららぽーと横浜で映画「ブラック・クランズマン」を見る。
監督はスパイク・リー。名前はずっと前から聞いていたが、監督作品を劇場で見るのは初めて。
さらにプロデューサーに「ゲット・アウト」の監督ジョーダン・ピールも加わる。
「クランズマン」はここではKKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーの意味。つまり「黒人のKKKメンバー」というのがタイトル。
この映画、黒人刑事と白人刑事がタッグを組んでKKKに潜入捜査するという驚くべき実話が基になっている。原作本もあるらしい。

キャストは、ジョン・デヴィッド・ワシントン(デンゼル・ワシントンの息子)が主役、彼がKKKとの電話担当で、実際にKKKに潜入するのがアダム・ドライバー。しかしアダム・ドライバー、よく出てくるな。
ロン・ストールワースというのが黒人刑事の名前で、これは実名のよう。

ストールワースの書いた話は実際は1978年らしいが、町山智浩によると監督は1972年頃の話に置き換えたとのこと(映画のチラシには70年代半ばとされている)。というのは70年代初めがいわゆる「ブラックパワー」の時代だからだ。
確かにロン初め劇中の黒人の多くはアフロヘアである。また1968年のメキシコオリンピックの陸上競技男子200メートルの表彰式での「ブラックパワー・サリュート」や、今作にも登場する、黒人解放運動の指導者ストークリー・カーマイケル(後にクワメ・トゥーレと改名)の「ブラック・パンサー」党などには個人的には記憶がある。
劇中後半では当時流行っていた「ブラックムービー」(アイザック・ヘイズの主題歌が有名な「黒いジャガー」等々)をパロディにしたシーンも登場する。

映画はまず「風と共に去りぬ」から始まる。これも町山智浩によると、あの映画は南北戦争の時代の南部連合の話で、奴隷制度に基づく白人の生活を描いたものとしてアメリカの黒人の間では全く不評なんだそうだ。
また、中盤でも「国民の創生」という1915年の映画のシークエンスも流れる。これはアメリカ映画史的には名作とされるが、実は南北戦争後、投票権を得た黒人をKKKがリンチする場面が含まれている。ちなみにWikiによると「国民の創生」の原作小説が「クランズマン」というタイトルとのこと。なるほど。KKKを賛美する内容のようだ。

あるいは、TVでトランプのものまね俳優として有名になった(らしい)アレック・ボールドウィンも映画冒頭に登場。映画の最後には、劇中にも1人の登場人物として登場していた、KKKのデビッド・デューク本人の映像や、まだ記憶に新しい、2017年に起きたヴァージニア州シャーロッツビルでの事件の映像が流れる。
そういう趣向だけでも監督のメッセージ性は明らか。そのメッセージ性については個人的にはまったくOK。

映画内物語は、ストールワースが黒人として初めてコロラドスプリングの警官として採用されるところから始まる。最初は資料室に回されるが、後に希望通り捜査する部署へ移動。移動して最初の仕事が、先にも触れたクワメ・トゥーレの演説集会への潜入。そこでパトリスという学生自治会の会長の女性と知り合う。パトリスとはこれがきっかけでその後お付き合いが始まる。
演説を聞いたストールワースは、パトリスのこともあったからか結局、彼らに「危険」はないと判断。

次に、ストールワースがたまたま目にした新聞の会員募集に応じる形で白人のふりをしてKKKに電話をかけ、相手に白人と信じ込ませることに成功、その上で、潜入捜査を目論む。そこでストールワースの代わりに潜入するのが、アダム・ドライバー扮するフリップ・ジマーマンという名の、白人ではあるが実際はユダヤ人の刑事。KKKはユダヤ人も差別対象で受け入れてくれないというのは今回始めて知った。

この経緯というか顛末がまず笑えるし、KKKに潜入してからのジマーマンの言動も周囲の反応を含めて結構コミカルで可笑しい。というのは私が「部外者」意識で見ているからということもあるだろうけれど。

その後、組織内である程度に信用を得たアダム・ドライバーのストールワースが支部長に推されたり、それからデビッド・デュークの警備に黒人刑事の本物のストールワースが付いたり、あるいは、アダム・ドライバーのストールワースの身元が暴かれそうになったりする展開を経て、パトリスの車にKKKメンバー(正確にはその妻)が仕掛けた爆発物を巡って、本物のストールワースが白人警官に取り押さえられたりして結局車は爆発。

最後はストールワースとパトリスの2人のシーンから、KKKの集会、そして先述のニュース映像へと流れ込んでエンドクレジット。だったはず。たぶん。

話そのものはおもしろいし、ストールワースとデビッド・デュークが電話で話す際に画面が二分割される等のどちらかというとTV的な手法も、映画の引用、ラストに先述のニュース画像を入れたところやその他の「趣向」も、それはそれで特に気にならなかった。
深刻なテーマをユーモアのセンスを織り込んで描くのは手法として好感が持てる。
充分楽しめたが、映画としてそれ以上のものは特段感じなかった。

映画の中の出来事としてちょっと興味深かったのが、ストールワースは署内でも特定の同僚から人種差別的な言動を受けることが何度かあり、それに対して不快感も表すのだが、さして気にしている風情でもない。そもそも、一般的に警察という権力機構は、黒人側から言えば、彼らを「弾圧する」側なわけだ。にも拘わらずその組織に職を求める(これも一種の「潜入」かもしれないけれど)というのもすんなりと呑み込めることではない。
まぁ、それだけ、人種差別が一般的だったということかもしれないし、黒人、白人、アジア系、プエルトリカンというような民族的出自で色分けしてもさして意味がないということもあるだろう。個人的な「性格」だってある。
当時が「ブラックパワー」の時代とはいえ、実情は一面的ではないということだ。

この映画の場合、監督が明確にしたかったのは、アメリカの人種差別の問題は、ずっと昔からトランプが大統領になった現在にいたるまで根本的には何も変わっていないという憤りである。

でも、これを見てスパイク・リーが「グリーンブック」が作品賞を受賞したことに対して「席を立った」理由がわかったというわけにはいかない。結局、当たり前だが、私がアメリカの人種差別に対して「肌感覚」で何某かのことを感じるのは無理なのだ。それはそれで仕方ない。

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2019.03.25[月] Movix橋本 「運び屋」

ムービックス橋本で映画「運び屋」を見る。
監督・主演はクリント・イーストウッド。
90歳のドラッグの運び屋を描いた実話もの。このところイーストウッドはずっと実話ものである。
主演は、監督作では「グラン・トリノ」以来だそうだが、「グラン・トリノ」の際はこちらが映画に対してほぼ休眠中だったので未見。
 
たぶん90歳の主人公を演じるに最もふさわしいキャストが自身以外に見当たらなかったんだろう。
何となく、90歳ふうな動作のゆっくりした、背中と腰も曲がり加減の風情だが、あれもきっと演技なんだろうと思う。よくわからないけれど。

家庭と家族に無頓着でまったく顧みず、仕事の花づくりに没頭していたイーストウッド扮するアール・ストーンが主人公。

彼が「インターネットのせいで」事業に失敗し、金にも困っていたときにたまたま持ちかけられた話がドラッグの運び屋だった。最初は1度きりのつもりだったが、困った友人たちにその仕事で得た金を援助するうちに、結局、運び屋の仕事は回を重ねていくことに。
決められたルートや時間も守らず、マイペースではあるが、確実に仕事をこなす彼の評価は高まり、それに従って麻薬取締官(「アメリカン・スナイパー」のブラッドリー・クーパー)の目にもつくようになる。
その間、ストーン自身やその周辺について、硬軟取り混ぜたエピソード的なことが描かれる。
そして、元?妻の病を知る。
彼は最後に「仕事」より「家族」とともにいることを選ぶ。

家族を顧みず仕事に没頭していた男が孤独になって、最後は家族に救われ、家族のもとに戻るという展開はあまりに話として普通にまっとうすぎて、率直に言って、イーストウッドの映画としては物足りないこともない。
たとえば「アメリカン・スナイパー」の緊張感を見せられた後では殊に。
でもストーンも最後に「命がけ」で家族を選ぶわけで、そういう意味ではただの予定調和ではないのもわかる。

イーストウッドが鼻歌を歌いながら車を運転するシーンが何度も出てくるが、これはいいシーンだ。この「似合わない」「軽やかさ」は新境地なんじゃないかと思う。
ただ一方で、彼が、これまでとは変わったルールを守らなかったと、組織の強面から暴行を受け、流血しながらハンドルを握る際の若い頃を思わせる「形相」(でギロっとカメラを睨む)に見て取れる緊張感と抑えた怒りこそやはりイーストウッドの身上のように思ってしまう。

実の娘アリソンに役の上でもストーンの娘を演じさせたのは、巷間言われるように監督がストーンと自らを重ねたのかもしれない。そういう部分は否定し難いだろう。そう思うと、これもまたよしという気にもなる。
彼のフィルモグラフィにこういう作品があってもいいとは思う。

かように、私的にはアンビバレントなところは少なからずあるのではあるが。

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