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豆腐に柳

 音楽、書物、映画、美術展等の感想、その他日々のあれこれ

2018.11.12[月] 東京国立博物館 「マルセル・デュシャンと日本美術」

11/1にフェルメール展を見た後、東京国立博物館へ「マルセル・デュシャンと日本美術」を見に行く。

とはいえ、デュシャンのことをよく知っているわけではない。例の、男性便器を「泉」と題したコンセプチャル・アートくらいしか知らないのだが、たぶんああいう系統の先駆者的存在だろうから、きっとおもしろいんじゃないかと思う。
東博では同時期に「京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」も開催中で、こちらにも興味がなくもないが、今回は時間と体力の都合もありデュシャンのみにする。

展覧会は2部構成で、1部は「デュシャン 人と作品」、2部が「デュシャンの向こうに日本がみえる。」。2部は、見てわかったが、素人目からすると「おまけ」。日本美術との関わりも少々無理があるような。でも、俵屋宗達と狩野探幽の「龍図」が見られたのはよかった。
1部でのデュシャンの作品は「大ガラス」を除き、彼のコレクションをもつフィラデルフィア美術館から。

1部の最初は、デュシャンの画家としての作品が並ぶ。が、彼が画家だったことも知らなかったこともあり皆おもしろい。印象主義、象徴主義、フォビスム、等の影響もあるようだが、キュビズムの作品が最も印象的。画家としてのたった10年ほどの作品にはそれなりに才能を感じる。彼自身がどう考えていたかはわからないが。もったいない気もしないでもない。

絵画制作をやめたのが25歳。その後、いわゆる「コンセプチャル・アート」へ。
この転身がどういう思想的心理的経緯でなされたのかは知らないが、転身後の作品群を見ていると、従来の「絵画」「芸術」の形式や「権威」に対するアンチテーゼを感じるのは自然な反応か。絵画制作をやめたのは、それが「つまらない」と感じたからだろう。1部の第2章は「「芸術」でないような作品をつくることができようか」と題されている。つまり、「何でも芸術になりうるはずだ」というふうに彼は考えていた。「制作」ではなく「視点」「発想」の転換であらゆるものは芸術になりうると考えた。では「実体」としての芸術とは何かと考えていったということだろうか。

第2章では、フィラデルフィア美術館以外からの惟一の作品が展示されていて、それが「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」、通称「大ガラス」の東京版。1980年にオリジナル(1915-23)から複製されたものだそう。ほかに、ひびの入った1926年版や1949年版の写真も展示。
または「レディメイド」と言われる、「泉」に代表される「作品」も3点展示。「レディメイド」はその名の通り、既成品にある特定の視点を与えることによって「芸術作品」として見直したもの。人間は何にでも「意味付与」したがるということだ。

その他、自身の女性としての別人格「ローズ・セラヴィ」を取り上げた第3章では、言葉遊び、視覚的実験装置等々の試み。またはチェスプレイヤーへの転身を試みたり、ダダやマン・レイとの交流から生み出された作品群。
やや迷走気味に見えるのは、美術界からも遠ざかっていたように思えるからか。
この時期に、エロス、性の問題をデュシャンが取り上げたのも、それが人間性の本質的要素であるにもかかわらず、ある種の「タブー」であったことからくるんだろうな。

そして最終章の「《遺作》欲望の女」では、彼の死後フィラデルフィア美術館で公開された《遺作》を巡る断片の数々と、2018年に映像化された作品。

いや、こうして駆け足ででも作品を回顧してみると、「芸術」という定義され得ないようなものに対して、デュシャンが遊びつつ戦っていた経緯の一端が垣間見えるような気がする。 
あらゆるものは「芸術」であるというテーゼは、「芸術」は実体をもたないということでもある。「正しい」認識だろうな。
おもしろかった。
でも、まだ何がおもしろかったかよくわからないのも確か。

http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1915#info

2018.11.05[月] 上野の森美術館 「フェルメール展」

11/1、上野の森美術館で「フェルメール展」を見る。

ご案内のように、今回はフェルメールが8点(来年1月にはもう1点増えて9点)一遍に来るということで(今日知ったが大阪では6点だそう)、混雑解消のために日時指定チケットになっていて、私がネット経由で入手したのは11/1の13-14:30に入場できるもの。
この時間帯に入場すればいいのだが、時間帯前半は行列ができるので後半に入るほうがいいとアナウンスされているのでその予定で、昼頃に所用を済ませてから上野へ向かう。
美術館に着いたのが13時半すぎ。
ちらっと見ると案の定行列がありそうだったので館外の展覧会看板の写真を撮ったり、上野公園内でトイレを借りたりして15分ほどしてもう一度覗くと今度は行列がなくなっていたので、入場。
入場料2500円の中に料金が入っているということか、音声ガイドは無料だが、いつものようにパスして会場へ。
指定時間制の割に混んでいるのは一旦入ればいつまでいてもいいからか。

最初は、17世紀オランダの非フェルメール作品群。肖像画、神話画と宗教画、風景画、静物画、風俗画と5つに分かれる。
こうして見てゆくと、肖像画や風俗画のいくつかではフェルメール的な何某かの「質感」が共有されているのに気がつく。それはたぶん、光の描き方や人物の佇まい等だろうか。ただし描かれる対象や構図、アングル等は異なる。端的にフェルメールの影響もあるのかもしれないが、もしかしたらこういう描き方がオランダのこの時代にある程度共有されていたのかのしれないとも思う。

これらの非フェルメール作品で最も魅力的に映ったのは、風景画だった。たとえばシモン・デ・フリーエルの「海上のニシン船」の靄のかかったようなやや幻想的な風景、ピーテル・サーンレダムの「アルクマールの聖ラウレンス教会」等。
フェルメールとはまったく違うが、いや、これはこれで悪くない。

風景画に限らず、パリの作家にはないようなある種のおおらかさとというか、言い換えれば芸術的に「郊外、ないし辺境」的ニュアンスがあるような気もする。適当なことを言ってるけど。

そして最後に「フェルメールルーム」と名付けられた部屋にフェルメール作品8点だけが展示される。
さすがにわんさか人がいる。でも人垣もタイミングを測れば、眼の前で作品が見られる場合もある。限られた時間内では、そうでない場合の方が多かったけど。
目についたのは、日本初公開らしい「ワイングラス」と再登場の「牛乳を注ぐ女」。どちらも光や光を反射する静物、人物の描き方がくっきりしている。部屋の空気に漂う光の粒子まで見えるかのよう。他の作品の多くが儚げで朧な光と影が交錯するのとは対照的だ。
次いで「手紙を書く婦人と召使い」か。こちらはカーテンの端が額縁で切れているところがおもしろい。まるで写真みたいだ。
一方で、「マリヤとマルタの家のキリスト」と「赤い帽子の女」は、フェルメール的とは必ずしもいえないように思う。前者はテーマがテーマだけに何となく光の描き方が自然光とは異なる気もする。

とはいえ、フェルメールはこの展覧会でここまで見てきた同時代の作家とはやはり違う。
ほぼ室内画で、かつ静物や人物が非常に精緻に描かれ、しかしながら現代的なスーパーリアリズムとは明らかに違う「やわらかさ」と、静謐な空気がそれらを包む。質感が違うとでもいうか。
風俗画とはいえ、やはりそこに宗教的な光の意味をも感じてしまう。

フェルメールは8点でも壮観だった。

https://www.vermeer.jp/

2018.10.31[水] 茅ヶ崎市美術館 「原安三郎コレクション 小原古邨展 花と鳥のエデン」

10/30、茅ヶ崎市美術館で「原安三郎コレクション 小原古邨展 花と鳥のエデン」を見る。版画展である。

NHK「日曜美術館」で紹介されていて「見たいな」と思ったものの、茅ヶ崎は遠いんじゃないかと思って調べたら1時間少しくらいだったので、会期末(11/4まで)だが行ってみることに。
小原古邨はそもそもは日本画家で、版画は、海外への輸出を考えた作品の版下絵を手がけたと展覧会チラシにはある。明治後期から昭和まで活躍したとのこと。

茅ヶ崎は、美術館以外でも初めて。ほとんどサザンの「砂混じりの茅ヶ崎」でしか知らなかった町である。この間たまたま見た「ブラタモリ」が、湘南あたりを紹介する回で、茅ヶ崎も出てきて「砂混じり」は海が近いので実際そのとおりだみたいな話をしていたのを覚えている。

美術館はJR茅ヶ崎駅南口から徒歩10分足らずのところで、市立図書館の隣、「高砂緑地」なる場所の中、坂道を少し登ったところで、美術館としては少々変わったデザインの建物だった。この「高砂緑地」は、回の展覧会の出展元「原安三郎」の別荘「松籟荘」の跡地だそう。
坂道を上り初めのところに「入場制限をしている」とかなんとかの告知がされた立札があり、まさか美術館じゃないよなと思ったら、美術館だった。館外に行列ができている。
会期末とはいえ、平日午後、茅ヶ崎というロケーションを考えて高を括っていたらこういう事態に。TVの「威力」を軽くみていた。
でも少し待つとすぐ入館はできた。でもそこからチケット売り場の前でまた列をつくるように言われて、10から15分ほど待ったか。列が3つできてようやく順番に会場に入れた。
会場内は意外に混んでいない。時間差入場と、展示が1FとBIに分かれるていたのが功を奏しているみたいだ。いくつかの条件を守れば写真撮影全編OK。

今回の展示は「原安三郎コレクション」からだが、同じコレクションからは2016年サントリー美術館での「広重ビビッド」が開催されていると後で知る。ちなみにこのコレクションからの小原古邨の展覧会は初めてとのこと。
また、今回の展覧会は前・後期全点入れ替えということで、都合240点ほどの展示。この後期だけだたざっと半数くらいだろうか。

版画はすべて木版画で、まずはこれ本当に版画か、肉筆じゃないのかと思うところから始まる。
卓越した色彩感覚を感じる。確かに下絵も見事なのだが、摺師の技量はさらにすごそう。しかもこういう展示では名前すら明らかにされないという。理不尽な気がする。「職人」と「絵師」ないし「画家」との違いを考えてしまう。

という感慨は置いておいて、展示されている(たしか)すべてが花鳥画というのがすごい。「花鳥」と言っても、「鳥」サイドには、昆虫、猿、犬、狐、虎、鹿(たぶん今回の展示にはなかった)等も含められるが、それでも限られた題材である。にもかかわらず、見ていてまったく飽きない。版画の趣向や構図,アングル等も各々おもしろいが、とりたてて多彩多様だというわけでもないのだが、こうして飽きず見入ってしまうには、やはり色彩の使い方の見事さだろうな。色彩はこのクオリティを支える大きな要素である。
まぁ、「花鳥風月」とか「雪月花」とかいう美意識がやはり私の中にも根強く残っていることもあるんだろうけれど。

明治後期以降という時代背景から西洋絵画の影響は当然だろうが、それも必要な部分部分にのみ使われている風情なのがいい。
また一方で、背景の大胆な使い方には、水墨画からの影響もむろんあるだろう。雪の積もった木枝に止まる烏を描いた背景が夕焼けの赤みたいな色彩だとか、羽の色が微細に描き分けられた蝶の舞う背景が黄色のグラデーションだとかという発想も、描かれると妙に魅力的に感じられる。
背景を含めた色遣いについてはかなり大胆。実験性すら感じる。で、これがほぼおもしろい。

最後に、比較対象としてか、広重、国芳がいくつか、小林清親も1点だけ展示されていた。

いいものを見せてもらった。

最後に1FとB1をぐるっともう一度周って、都合1時間15分くらいか。
美術館を出ると、西の空はきれいな夕焼けだった。

http://www.chigasaki-museum.jp/exhi/2018-0909-1104/

2018.10.30[火] 東京ステーションギャラリー 「横山華山展」

10/23、東京ステーションギャラリーで「横山華山展」を見る。
展覧会チラシによると、横山華山は江戸後期の絵師で(没年は1837年)で、京都で活躍、当時は人気絵師だったとのこと。
夏目漱石の「坊っちゃん」にも言及されるような知名度だったが、既存の画派に属さない活動のせいか、徐々に忘れ去られていき、今や「知る人ぞ知る」という作家らしい。

曾我蕭白のパトロンが横山家だったらしく、そのせいで初期は蕭白の影響を受けていたということで、同じ題材を描いた両者に作品が出展されていて見比べたが、蕭白の大胆で破天荒な画風に比べ、華山のほうが端正で落ち着いた印象。
全体としては、技巧に優れ、なんでも器用にこなす印象だろうか。いや全然悪い意味ではなく。

代表作と言われる「祇園祭礼図巻」は上巻、下巻で30メートルに及ぶ大作で、山鉾、神輿、群衆がかなり細密に描かれている。群衆の各々の表情もちゃんと描かれる。描いている作家もきっと楽しんでいる。山口晃を思い起こした。

他に六曲一双の屏風絵もいくつか出展。「唐子図屏風」の子どもたちの愛らしさが印象深い。

花鳥・動物をテーマに描いた作品群も秀品が多い。
連作みたいな「虎図」もいいが、「桃綿雉・舜花猫図」の前では、自然な淡さと繊細さ、ほの明るさに惹かれ、しばし佇む。「雪中烏図」も記憶に残る。

最後に、「富士山図」他、いくつかの作品で描かれる富士山は、今まであまり感じたことのない、儚さと朧げな味わいをもつ。「霊山」が表すように、この世とあの世の境界に現れるかのような趣も。

この美術館、今回もいい企画だった。11/11まで。

http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201809_kazan.html

2018.10.19[金] 柴崎友香 「寝ても覚めても」 河出文庫 増補新板

ということで、映画を見て後、予定外の原作読書となった。
読む前から情報として、この小説が「朝子」の一人称語りであることは知らされていたのだが、
実際に読んでみて、この一人称語りの意味の大きさがわかった。

この小説が「朝子」の一人称語り、つまり何がそこで起きているかはすべて「朝子」というフィルターによって語られる設定であることは、そしてそれが、小説を読む限り、その内容が、少なくとも部分的には「客観性」(という言葉に問題があれば「共有性」でもいい)が意識されているように思えないとなれば、この小説世界自体に「客観性」が担保されない可能性を意味する。

実際、「地の文」を織りなすこの「語り」は、あるときには、「解説」で豊崎由美が「目の文体」と呼ぶ、細密で場合によっては文学的とも言えそうな文体でありながら、一方で、朝子の恋愛感情の対象である麦や亮平に対しては時折、ほとんど呆けたような、あるいは白昼夢であるかのような文体になる。それは少なくとも20過ぎあたりから30歳にかけての年齢の人間の文章というより、中高生のそれに近い印象がある。
あるいは、「麦が帰ってこなくて、四日経った」「麦が帰ってこなくて、二年九ヶ月経った」というような、少々妙な日本語をあえて使うのは、おそらく朝子の心情を、一般的慣習的日本語ではなく、より心情的口語的に、言い換えれば「主観的」に、表そうとしたからだろう。

なんだか小説の「語り」における一種の「実験」を試みているようにもとれる。そもそもこの「文章」は他者に向けられたものなのだろうかという疑問も生じる。

いずれにせよ、そこには、明らかに現実をリアリズム的に描き出そうとする意図とは異なる意図が働いている。作家はここで「現実」の「客観性」を信じていない。あるいはそういう方法で物語を記述しようとしていない。あくまで「朝子」の「現実」を描こうとする。でも描こうとする「主体」も曖昧だ。

その語りの中にも、かなりぎこちない、言い方を変えれば文章として「不自然な」、非現実感が漂うところが所々に感じられる。もしかしたら、最初の麦との出会いからすべて夢の中の話であるとか、幻想だったとか言われても、やっぱりねなどと思うかもしれないと思いながら読んでいた。

たしかに「現実」は個々人にとって変わりうる。それは「認識」に過ぎない。ラカンじゃないが、我々にとって決してその総体を把握できないものだ。

ただ、小説は読者を求めるわけだから、一定以上の内容は共有されなければ始まらない。あとはさじ加減であり、バランスの問題である。

恋愛ないし恋愛感情というのは、しかし改めて考えてみれば、そうした個別の「現実」が最も際立つ場面の一つであり、そういう種類のものだろう。そして確か映画の感想にも書いたように、恋愛はあらゆる人間関係を濃縮したようなものとも言える。そういう意味での「普遍性」はあるのかもしれない。

この小説を通読するのは、正直なところ楽ではなかったが、それは作家が朝子の「語り」に仮託した「現実」を受け入れざるを得ない形式で物語が進行するからだろう。
その、いくぶん客観性に欠ける「現実」、若い女性の恋愛感情という現実に沿って組成される「現実」をたどるしか読者にはこの物語世界を知る術がない。

「現実」は、確かにどんな人間ににとっても厄介なものだと、この小説を読むことによって改めて知ることになった。
程度の差こそあれ、実際の「現実」でも結局、事情は同じなのだ。

しかし、反面、それは、「現実」がきわめて「魅力的」にもなりうることをも意味する。自己の「現実」と他者の「現実」が異なるからこそ、おもしろい。あらゆる表現活動も、わたしたち個々人の「生」自体も同様である。

映画との比較で言うと、設定や場所といった細部の違いは少なくないし、映画は小説のように一人称語りが使えないわけだから、同種の作用ないし効果は働かないが、映画の中の「朝子」の佇まいには原作小説に近いムードは醸し出されているように思う。 
原作と映画はむろん別物だが、原作の趣向なり仕掛けなりを受け継ごうという意図は感じられた。

最後に。
小説の中に出てくる会話の多くが関西弁なのだが、私自身が関西出身でありながら、何となく「めんどくさい」感覚があったのはなぜか。
関西在住の当時から、この小説の登場人物の使う関西弁と同じような関西弁を使っていたのかどうか。似たような言葉は使っていたとは思うのだが。
ここで使われる関西弁は、いわゆる「こてこて」の関西弁ないし大阪弁でもないようにも思う。私の知るそれは、今の若い子の使う言葉は当時とは違っているだろうけれど、そういうところに引っ掛かっているのでもない気がする。

考えたのは、関西弁でこんなふうに、すべて文字で表記された小説でもエッセイでもをこれまで読む機会がごく少なかったのかもしれないということである。
方言というのは、まずは「話し言葉」である。まぁ昨今は小説に方言が使われているのもまったく珍しくはないのだろうけれど。
この小説には、麦を除く主要登場人物はみな関西弁話者であり、それがかなり細かいところまで文字化されている。そのあたりかもしれない。何となく、落ち着かなさを感じたのは。
さらに、私が日常を関東で送っているということにも関係があるんだろな、きっと。

http://urx2.nu/MHk5

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